とかいう理由では、全くありません。
本心を言うと、むしろ広まって欲しくないのです。数百人も生徒が集まってしまうと、先生に質問する事すら出来なくなります。かまってもらえません。
それは嫌だ!
それでも書く理由は、死後に偉大な覚者と称されるであろう人物の言葉を、後世に残している気分になるからです。
今は、ごく少数の生徒しか正しく評価していない。例えるならば、ゴッホやベートーヴェンのような存在。
誰も読まないブログだからこその内容なのです。しかし百年後には、時代を先取りしていた!なんて思われたいわけです。壮大な野望です。
瞑想を楽しむ方法
聞いた話ですが、瞑想を続けられる人は、全体の約1割くらいだそうです。効果が実感できないというのが、挫折の主な原因のようです。
確かに私も、瞑想で成果を感じた事はほとんどありません。当然、モチベーションは下がります。瞑想も楽しくなくなります。
ではどうすればいいのでしょうか?今回は瞑想を楽しむヒントとなる、先生からの御言葉を紹介したいと思います。
2024年7月29日の講話より
質問者
瞑想が我慢になる場合、どうすればいいのでしょうか?
和平先生
気分的にやりたくない日はあるよね。
でも本当は1番好きな事をしているはずなのに、今すごく我慢してる気持ちになるのは、そこにマーヤがあるから。
だって、やりたいことなんだもん。神の事を知りたいわけだし。自分の事を知りたいわけだし。解放されたい欲求も持ってるわけだから。
でもやる気が出ないのは、その日その日によって晒されているマーヤが違うからなの。
これって出来ると突然、出来るようになる。それは出来るみこころが働いてるから。我々からすれば、やる気のないマーヤを何とかするしかない。
そこでだ!
方法をひとつに絞り込んでちゃダメなの。神と繋がる為のツールってのは、何パターンか持っておいたほうがいい。
気分っていうのは、自分のエネルギーセンターの移動によって、いとも簡単に変わっちゃうわけ。
例えば今日1日、欲望に根差した状態に身を置いておくと、センターがお腹の方に落ちちゃう。
そんな時は頭に上げるより、そのセンターに意識を向けた方が容易になる。
だからモードがエロくて瞑想できない時には、瞑想しながらエロい事を考えればいい。それが唯一の解決策(笑)
今日はセンターが下にあるな、と思ったら瞑想の姿勢で座る。
下にある時ほど形が大事なの。シッダアーサナとかで座るとか。ダラ~っとした恰好で座ってたら、瞑想じゃなく妄想になっちゃうから。
座禅の姿勢で岩尾のごとくドカっ!と座りながら、周りの人が見たら、ウォー凄いと思わせるほどの姿勢で座りながら、エロいことを考える(笑)
何それって思うかもしれないけど、インドでは普通にある瞑想法だからね。タントラですよ。男根とかをビジュアライズする観想法があるくらいだから。
エネルギーが下の方にある時には、そういう瞑想の方がはかどるの。
座禅組んで、私は瞑想していると自覚しながら、エッチなこと想像して座ってると、それは瞑想として認識されるの。
ビジュアライゼーションになる。お札の中で寝てる想像してもいい。これはアストラル体の強化になる。
目を閉じた状態で鮮やかに物を描ける能力、アストラル体の能力が活性化してくるってことは、脳のある部分が活性化してくることなわけ。
これってシンプルに脳の機能なんだよね。神聖なイメージじゃないとダメとか脳には関係ない。
そういうのを続けていくと、ビジョンが見えてくることによって瞑想状態っていう脳波、プチサマーディに入れるようになってくるから。
僕の感覚でいうと、アストラル的な視覚とサマーディは絶対セットになってる。意識がサマーディの中に入っていくと同時に、ヴァーっと視界が開けてくるから。
目を閉じてる状態で、いろんな映像が見え出す。
だからチャクラの重心がどこにあるのかによって、瞑想法ってのは本当は変えるべきなの。
カリキュラム通りにしないとダメって考えると負担になっちゃう。探求心が削がれて行っちゃう。
まず座る前に体をサーチして、どこに今日のセンターがあるか探すわけ。自分の全面をサーチして、下まで行って背面をサーチする。
調子の良い時には、頭のてっぺんから後頭部にある。お釈迦様に光背があるよね。後頭部の30センチ離れたところにエネルギーが溜まっている。
そういう日はソファーで踏ん反り返って、天井に意識を向けとけばいいわけよ。
ハートにセンターがある時も、座禅じゃなくていいわけ。ベッドで横になりながら、ハートに意識を集中したりしてもいい。
グルジェフは、人間は多重人格だって言ってる。その日によって誰が出てくるか分からないって。人間のコンディションはマーヤの影響によって毎日違うから。
ひとつの瞑想法しか知らなかったら、今日出来ないな、で終わっちゃうかもしれない。でも別な方法だとうまく出来ることもあるわけ。
瞑想はその日によって、自在に変化するって捉えた方がいい。型にはめちゃダメなの。型にはめるとそれを維持する努力が働く。
それは苦痛になる。本来、神を求める気持ちは1番楽しいはずなの。だから大変な努力はする必要ないわけ。
とにかく楽しく瞑想する。それがポイント。楽しくないと続かないからね。努力なんてちょっとでいいの。
トンビと同じ。ちょっとパタパタして気流に乗れば、あとは無努力。ハトみたいに大騒ぎしてちょっとしか飛べないみたいな(笑)。努力は必要ない。
だから、今日のムードに合った瞑想法をするのが大事。
(抜粋終わり)
努力 忍耐 根性からの解放
学生時代、部活で運動をしていた頃、反復動作をひたすら繰り返すことが1番の近道と教えられました。
同じ道具で同じ場所を掘り続ける。水脈を掘り当てるまで。単調な作業にも耐え忍び、やり通す事こそ男の美学!
と、瞑想もひとつの方法だけを繰り返し、深堀りするのが常識だった私にとって、毎日やり方を変えるという教えは目から鱗。
えっ?別なところ掘ってもいいんですか?みたいな。
あるいは結果を求めすぎて期待した成果が出ず、瞑想が苦痛になっていた時期もありました。
しかし今の私は、瞑想から一切結果を求めなくなりました。期待を完全に捨てました。ただ瞑想中に感じる平和を楽しむだけです。
かつてラーマクリシュナは「神が行為者である。彼のみがいっさいのことを行っておられる。私は何もしていない」と説きました。
今は自分が瞑想をしていると思わず、神を通して瞑想が私に起こっている、と捉えるようにしています。言い換えればみこころが起こっているだけ。
あとは、みこころを信頼し結果は神に委ねる。それが最もお気楽に瞑想する方法かもしれません。深刻さこそが唯一の問題だと思うのです。
毎日、楽しく瞑想が出来れば良いですよね。それでは今日はこの辺で。