岩城和平先生の教え サマーディの罠

2024年5月30日

スピリチュアル 岩城和平先生

t f B! P L
私が過去に惹かれた覚者の共通点は、目覚めるための方法論を提示してくれている、ということです。


その道に従うことで、やってる感が生まれるからです。しかしアドヴァイタでは、あなたは既に「それ」である、と言います。


この言葉には、あなたは既に悟っているから何もする必要はない、というニュアンスが含まれています。


確かにそうかもしれませんが、ではどうすればいいんですか?と聞きたくなるのが人の性。


ある人は、覚者を求めてインドにまで旅に出ます。するとインドの覚者はこういいます。


「悟りとは、努力の結果として得られるものではない」と。インドにまで来た努力を全否定するわけです。鬼です。



アジズ・クリストフの教え

アドヴァイタに不満を抱き、新しい教えを説いたのが、アジズ・クリストフ(現アナディ)です。



私が最も影響を受けたマスターとも言えます。


「あなたにやれることは沢山ある」という言葉に希望を感じました。圧倒的な知性の高さと洞察力の深さに、感銘を受けたものです。


悟りにまで至る道筋を明確にし、一歩ずつ着実に前進できる方法が説かれています。その教えは非常に論理的かつ緻密で、マインドにアピールします。


何よりもアジズ自身がその道を歩み、目覚めたというから説得力がある。アジズの生徒さんの中にも、彼の教えに従い、悟ったと公言している方が日本にもいます。


そこまで行かなくとも、深い瞑想の境地を体験した人はかなりの数いるかと思われます。


しかし最近、思ったのです。アジズは悟りではなく、サマーディ(境地)に入ることを教えるマスターではなかろうかと。


なぜそう思ったかは忘れましたが。肝心なところを覚えていません。


アジズの教えによれば、悟りはひとつではありません。I AM(神の名、私は在る)にも色々な側面があるという理由からです。


その中に「絶対状態の悟り」というものがあります。絶対とは、ニサルガダッタ・ハマラジが最初に使った表現です。



「私は在る」の存在の局面における反対側へのシフトであり、不在の境地です。ニルヴィカルパ・サマーディがそれに当たるそうです。


そこで、勉強会でお世話になっている岩城和平先生に、サマーディとは何なのかを質問してみました。


注:上記の内容はアジズの過去の教えです。アナディと名前を変えてからの教えは詳しく知りません。より複雑化し、難解すぎてついていけない状態です。




2024年5月26日の講話より

和平先生 サマーディって、ヨガにおける意識の進化段階の部類法じゃん。これってレッテルなわけ。ってことはマーヤってことになる。


ラマナ・マハルシは、目を開ければサヴィカルパ・サマーディ、目を閉じればニルヴィカルパ・サマーディって答えている。


これってインドのヨギからすれば、あるまじき答えなんだよね。


大体ヨギってのは、偏執的なくらいサマーディにこだわってて、色々カテゴリー分けして語るわけよ。


僕なんかも修行してたときに、自分の状態を計るうえでの指標にはしてた。


でも、神様の結輪に到達したときに、全部マーヤだったってことが分かったわけよ。どうでもいい話だなと思ったわけ。


神様が、バッってなったときに、サマーディなんて全部マーヤじゃん。「神様、間違いないですよね?」


「ワシはインドでは階級制度とか戒律を厳しく作ったわけ。そうしないと簡単に悟っちゃう奴が出てきちゃうわけよね。


奴らにはさ、哲学的思想を持つように作ってみたわけ。そうすると神の理解も他の国より起こりやすいわけ。


だからマーヤな階梯を作って、お前、まだこの段階だから全然ダメよとか。次のサマーディに行くまで何年もかかりますよ、みたいな。


そう簡単に辿り着けないってインド人全員、思い込んでるわけ。


だから、あれだけ信心深くて哲学的思惟能力を持ってるインド人でも、悟りに到達した人が少ないのは、そういう理由なわけよ。


お前みたいな日本人がサマーディに捕らわれたのは、運が悪かったね。インド人向けに難しくしたのに日本人が引っかかったら、もっとタチ悪いよね」


みたいな。これが神様のホントのところの意見。それが俺が受け取った結論。



私 瞑想で到達する深い境地と、神様の関係について教えて下さい。



和平先生 瞑想と神様は関係ないの。水泳する人がプールに入る前、準備運動するじゃん。


あれと水泳ってなんの関係もないじゃん。血流を良くするためにやるだけで、あれやったからってクロールが上達するとかいうことは無いわけ。


瞑想ってのはそれと一緒なの。神様を体験するための、まったく関係のない準備運動。


まったく関係ないけども準備運動しておくことで、神様を体験したときに心臓麻痺を起さないってそういうことなの。


サマーディのマーヤに捕らわれると、神の体験は遅れる一方になっちゃう。どんどん遅延しちゃうよ。


だから僕がゾクチェンだとか、ハマムドラーとかヨガだとかの行法は、全部マーヤとして一刀両断しちゃうのはそこなの。


これをクリヤーしないとダメなんだって、限界を設けることで不可能になることが出てきちゃう。


でも神の本来の状態ってのは、あるがままの状態なんだから。すでに。それをただキャッチするだけのことなんだから。


で!


瞑想で一番のポイントがあるわけ。


ヴィパッサナー瞑想やってもクンダリニー瞑想やっても、クリヤヨガの瞑想をやっても、どの瞑想をやっても、ひとつ共通してることがあるわけ。


意識が瞑想しているってこと。あんなことやって、こんなことやってってあるけど、瞑想してる意識はただひとつ共通してる。


それを味わうための瞑想をする。目標をもって瞑想しちゃダメなの。


瞑想ってのは状態なの。サマーディってのは瞑想じゃないの。集中法なの。訓練。プラクティス。その訓練に意味はない。


瞑想状態にいることが大事。じゃあ、瞑想状態って何なのかっていったら、突然ファーっとやってきた感じ。(笑)


それに身を委ねればいい。あるがままの状態。ファーっとしてればいい。それが自分の中の錆びついたものを除去して、神様を受け取りやすくなる状態ってことなの。


だから、なんなら瞑想なんかしなくてもいい。


神さまぁ!って神様のことだけ思っていればいい。答えを下さいって悶えてればいいわけ。瞑想より効果あるよ、こっちのほうが。


神様って連呼して、のたうち回ってフンガフンガ言ってる方が瞑想より効き目ある。駄々こねる子供みたいに。それが最高の修道方法。(笑)


カッコつけて座るみたいな瞑想なんかしなくてもいいんだよ。


なんでもそうだけど、カッコよく見えるのは怪しいからね。スッキリ見えたり、立派に見えるのは大体怪しいから。


人間なんて、メシ食ってクソするだけの存在なんだから。それくらいのレベルのところに答えは転がってると思った方がいいよ。


転がってるんだよ、コロンコロンって。便器に転がってるみたいに。


ホント、どれだけ気軽に捉えられるかで勝敗が決まるから。まことしやかなのに騙されちゃダメだよ。大体サタンだから。そういうのは。


さもありなんとか、まことしやかとか、これほどまでにサタンを言い表してる言葉はないわけよ。


いかに教えることが何もないかとかね。ただその辺に転がっておきんしゃい、みたいな。そういうのが凄いんだから。


ラマナだって、ラーマ・クリシュナだって何も教えてないでしょ。本当に凄い人は方法論を説いていないんだよ。


方法論なんてクソ食らえだからね。どんだけリラックスして自己の解放ができるかってことだから。


(抜粋終わり)



騙され続けて30年

さすがは和平先生。しまむらのTシャツ着て毎回講話しているだけのことはあります。気取った感じがまったくありません。


私も過去に、悟るための方法はない、という話はたくさん聞いてきました。


ですがわたくし、どちらかというと頑固な性格でして、論理的な説明でない限り、なかなか納得しないタイプです。


しかし、覚者の言葉を直接聞くということは、想像以上に響くものがありまして、論理的思考を飛び越えて納得させる力があります。


多くの覚者たちは、その慈悲ゆえに、何かしらの瞑想方法を与えているのかもしれません。人は何もせずにはいられないからです。


これやったら悟りまっせ!なんてものは存在しないというのが、今の私の認識です。


私もアジズの教えを実践していた無職の1年間、1日平均8時間、多い時には15時間、必死に瞑想していました。


その結果、何か成果を得たかというと、何ひとつありません。せいぜい嫌気がさしたくらいです。


最近の私は瞑想とか悟りに、ほとんど興味がなくなりました。それより大事なのは愛だなと。神様に対する愛と、人生に対する愛です。


神が与えてくれたこの人生で、どれだけ愛を学ぶことができるのか?それが魂の成長に繋がると思うのです。


それだけでも十分、難しいチャレンジですが。


そんな人生を歩んでいたら、いつかご褒美として悟りが訪れるでしょう。これやったら悟りまっせ!

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