どのページを読んでも、同じような話しか出てきません。ラマナの教えが終始一貫しているとも言えますが。
しかし岩城和平先生に話によれば、ラマナは別格の聖者だったようです。それが分かったのは先生が悟った後のこと。
ラマナの教えはシンプルかつダイレクトに真理だけを語っており、本質から逸れた話が何もないとのことでした。
真理一筋のラマナの教えが、逆に私には退屈だったのでしょうか。カルマ浄化とかチャクラなどの話題が好きなものでして…。
真我とは何か?
ラマナの教えを学ぶ時に最大の問題となるのが、真我という言葉。私も20代の頃に初めて本を読んだとき、真我って何?となりました。
「真我に留まりなさい」とは言うけれど、留まるべき何かが分からない。
真我、つまり古代インド哲学でいうところのアートマンとは「至高の自己」「内なる神」「魂」など、色々な表現がされています。
ただどちらにせよ、よく分かりません。しかし、もっと簡単な解釈も可能です。それは意識です。
和平先生によれば、意識とは神のエッセンスそのものなのだそうです。神=意識とざっくり捉えても問題はないそうです。
神が遍在するように、意識も遍在します。私の意識とあなたの意識、という分離した意識があるわけではなく、ただひとつの意識だけがある。
例えば海水を、色々なコップに入れたとします。それぞれ違う中身に思えても同じ海水です。
すなわち私たち全員が、同じ意識を共有しているのです。それが真我です。人類みな兄弟。
しかし真我は、私の中にありながら、私のものではありません。神由来です。和平先生は真我を、横田基地に例えておりました。
日本にありながら、日本ではない。「真我は横田基地」と覚えておくと良いそうです。
意識を探す旅
わたくし、過去にある教師のもとで、意識の発生源を探求したことがあります。意識はひとつであるとしても、個々の肉体を持つ以上、どこかに発生源があるはずです。
私の感覚では、意識は脳の中心辺りから発生しています。(松果体とか言うと、いかにもそれっぽいけど)。脳の中心にあるので「私」という感覚が生まれます。
意識はその性質上、絶えず外側へと向けられます。しかし、意識そのものに普段は気づいていません。
例えるならば、色々な場所を照らす懐中電灯のようなものです。光の源を知りたければ懐中電灯を見るべし。
同様に、意識をどこにも向けず静かにしているとき、意識はそれ自身として輝きます。すると純粋な自己という感覚が現れます。
思考や感情を観察している者。子供の頃から変わらずあり続ける者。純粋意識。それを認識するのは難しいことではありません。ってか簡単です。
そもそもラマナが一般人に、認識すら困難なものに留まることを要求をするとは思えません。本当はもっとずっとシンプルな教えのはずなのです。
すなわち「真我に留まりなさい」とは、「あらゆる経験の主体である自分自身に留まりなさい」というだけの話だと思うのです。
似たような技法にグルジェフの自己想起があります。あるいはニサルガダッタ・ハマラジが説く「私は在る」という感覚への継続的な留意など。
すべて同じものを差し示していると私は考えます。
私は誰か?の問いの目的
「私は誰か?」の問いはラマナの専売特許かと思っていたのですが、和平先生の話によると、インドではシャンカラ時代から使われている伝統だそうです。
先生の師匠であった活仏、ミンリン・ティチェンは毎朝必ず「どこから来た?」と聞いてくるので、先生も苦笑いするしかなかったとか。
その質問の意図は、「私は日本人で名前は誰それである」という概念を取り除き、自分を思い出させようとするものです。
ラマナが、いちいち質問者に「その質問をしているのは誰ですか?」と尋ねる理由が分かります。
真我と胸の右側の謎
ラマナの教えで1番混乱するのが、真我の場所です。胸の右側にあると言っています。
これはどういう意味なのでしょうか?ただの方便かもしれませんが、ラマナは実際に、胸の右側に何かを感じていたと私は思うのです。
それは愛かもしれませんし、慈悲かもしれません。魂かもしれません。
私も愛であったり感動した時に、胸の辺りにじんわりするものを感じます。ましてラマナの人々に対する慈愛は、溢れんばかりだったでしょう。
意識と同じく、愛が神のエッセンスであるならば、胸に感じる愛を真我と言ったとしても不思議ではありません。
本書の中でラマナが、どこにでも存在する神を「アルナーチャラの丘が神だ」と特定したことで、その矛盾を質問者に突っ込まれる話があります。
それに対してラマナは、アルナーチャラに現れる神の力を否定できないとし、「アルナーチャラが真我だ」と答えていました。
胸の右側も同じかもしれません。ラマナはそこに、神の現れを強く感じていたのかもしれません。
ラマナ・マハルシとマザー
ラマナはアドヴァイタ(不二一元論)の師と言われていますが、それは後世の学者達が決めたこと。
ラマナは母(マザー)を知る稀有なマスターだったと岩城和平先生は言います。マザーとは、唯一絶対者の原初の相対化、父なる神に対する、母なる神のことです。
実はラマナは母の影響を、非常に強く受けていたと説く教師もいます。アルナーチャラの丘に宿る力も母。それが和平先生が、ラマナは誤解されている、という所以でしょうか。
ラマナがいう、私ー私の脈動とは、生命の根源である母を表現していた可能性もあります。
ひとつの肉体の中に、父(意識)と母(生命・愛)が共存すると考えてみるのも面白い。
意識としての私が、生命としての私と出会う。だから私ー私。ラマナは胸の右側に、その感覚を持っていたのではないでしょうか?
むろん、これらはすべて私の推測です。(全然違ってたらウケる。)
愛について何も語らず、それでいて愛の滲み出た表情のラマナ。「男は愛とかママとか言わねーんだよ!」という昔気質の人だったのかもしれません。
和平先生お勧め、ラマナ・マハルシの本
余談ではありますが、ラマナの本の中で、岩城和平先生がお勧めしている本が、「南インドの瞑想」です。
翻訳者は、おおえ まさのりさん。世間的には誤訳と評価されているそうでが、実はこの本だけが唯一、ラマナを身近に感じられるそうです。