ラマナ・マハルシ 真我とは何か?

2024年5月14日

スピリチュアル 岩城和平先生 読書

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ラマナ・マハルシとの対話、第一巻を読みました。


数ページ読んでは休み、また数ページ読んでは休みの繰り返しで、気が付けば読み終えるまで1年近くかかりました。


どのページを読んでも、同じような話しか出てきません。ラマナの教えが終始一貫しているとも言えますが。


しかし岩城和平先生に話によれば、ラマナは別格の聖者だったようです。それが分かったのは先生が悟った後のこと。


ラマナの教えはシンプルかつダイレクトに真理だけを語っており、本質から逸れた話が何もないとのことでした。


真理一筋のラマナの教えが、逆に私には退屈だったのでしょうか。カルマ浄化とかチャクラなどの話題が好きなものでして…。



真我とは何か?

ラマナの教えを学ぶ時に最大の問題となるのが、真我という言葉。私も20代の頃に初めて本を読んだとき、真我って何?となりました。


「真我に留まりなさい」とは言うけれど、留まるべき何かが分からない。


真我、つまり古代インド哲学でいうところのアートマンとは「至高の自己」「内なる神」「魂」など、色々な表現がされています。


ただどちらにせよ、よく分かりません。しかし、もっと簡単な解釈も可能です。それは意識です。


和平先生によれば、意識とは神のエッセンスそのものなのだそうです。神=意識とざっくり捉えても問題はないそうです。


神が遍在するように、意識も遍在します。私の意識とあなたの意識、という分離した意識があるわけではなく、ただひとつの意識だけがある。


例えば海水を、色々なコップに入れたとします。それぞれ違う中身に思えても同じ海水です。


すなわち私たち全員が、同じ意識を共有しているのです。それが真我です。人類みな兄弟。


しかし真我は、私の中にありながら、私のものではありません。神由来です。和平先生は真我を、横田基地に例えておりました。


日本にありながら、日本ではない。「真我は横田基地」と覚えておくと良いそうです。



意識を探す旅

わたくし、過去にある教師のもとで、意識の発生源を探求したことがあります。意識はひとつであるとしても、個々の肉体を持つ以上、どこかに発生源があるはずです。


私の感覚では、意識は脳の中心辺りから発生しています。(松果体とか言うと、いかにもそれっぽいけど)。脳の中心にあるので「私」という感覚が生まれます。


意識はその性質上、絶えず外側へと向けられます。しかし、意識そのものに普段は気づいていません。


例えるならば、色々な場所を照らす懐中電灯のようなものです。光の源を知りたければ懐中電灯を見るべし。


同様に、意識をどこにも向けず静かにしているとき、意識はそれ自身として輝きます。すると純粋な自己という感覚が現れます。


思考や感情を観察している者。子供の頃から変わらずあり続ける者。純粋意識。それを認識するのは難しいことではありません。ってか簡単です。


そもそもラマナが一般人に、認識すら困難なものに留まることを要求をするとは思えません。本当はもっとずっとシンプルな教えのはずなのです。


すなわち「真我に留まりなさい」とは、「あらゆる経験の主体である自分自身に留まりなさい」というだけの話だと思うのです。


似たような技法にグルジェフの自己想起があります。あるいはニサルガダッタ・ハマラジが説く「私は在る」という感覚への継続的な留意など。


すべて同じものを差し示していると私は考えます。



私は誰か?の問いの目的

「私は誰か?」の問いはラマナの専売特許かと思っていたのですが、和平先生の話によると、インドではシャンカラ時代から使われている伝統だそうです。


先生の師匠であった活仏、ミンリン・ティチェンは毎朝必ず「どこから来た?」と聞いてくるので、先生も苦笑いするしかなかったとか。



その質問の意図は、「私は日本人で名前は誰それである」という概念を取り除き、自分を思い出させようとするものです。


ラマナが、いちいち質問者に「その質問をしているのは誰ですか?」と尋ねる理由が分かります。



真我と胸の右側の謎

ラマナの教えで1番混乱するのが、真我の場所です。胸の右側にあると言っています。


これはどういう意味なのでしょうか?ただの方便かもしれませんが、ラマナは実際に、胸の右側に何かを感じていたと私は思うのです。


それは愛かもしれませんし、慈悲かもしれません。魂かもしれません。


私も愛であったり感動した時に、胸の辺りにじんわりするものを感じます。ましてラマナの人々に対する慈愛は、溢れんばかりだったでしょう。


意識と同じく、愛が神のエッセンスであるならば、胸に感じる愛を真我と言ったとしても不思議ではありません。


本書の中でラマナが、どこにでも存在する神を「アルナーチャラの丘が神だ」と特定したことで、その矛盾を質問者に突っ込まれる話があります。


それに対してラマナは、アルナーチャラに現れる神の力を否定できないとし、「アルナーチャラが真我だ」と答えていました。


胸の右側も同じかもしれません。ラマナはそこに、神の現れを強く感じていたのかもしれません。



ラマナ・マハルシとマザー

ラマナはアドヴァイタ(不二一元論)の師と言われていますが、それは後世の学者達が決めたこと。


ラマナは母(マザー)を知る稀有なマスターだったと岩城和平先生は言います。マザーとは、唯一絶対者の原初の相対化、父なる神に対する、母なる神のことです。


実はラマナは母の影響を、非常に強く受けていたと説く教師もいます。アルナーチャラの丘に宿る力も母。それが和平先生が、ラマナは誤解されている、という所以でしょうか。


ラマナがいう、私ー私の脈動とは、生命の根源である母を表現していた可能性もあります。


ひとつの肉体の中に、父(意識)と母(生命・愛)が共存すると考えてみるのも面白い。


意識としての私が、生命としての私と出会う。だから私ー私。ラマナは胸の右側に、その感覚を持っていたのではないでしょうか?


むろん、これらはすべて私の推測です。(全然違ってたらウケる。)


愛について何も語らず、それでいて愛の滲み出た表情のラマナ。「男は愛とかママとか言わねーんだよ!」という昔気質の人だったのかもしれません。



和平先生お勧め、ラマナ・マハルシの本

余談ではありますが、ラマナの本の中で、岩城和平先生がお勧めしている本が、「南インドの瞑想」です。


翻訳者は、おおえ まさのりさん。世間的には誤訳と評価されているそうでが、実はこの本だけが唯一、ラマナを身近に感じられるそうです。


おおえさん独特の感性で、ラマナ本来の素朴さを表現しているところが素晴らしいとのことです。読むならこの1冊!

残念ながら今は絶版のようですが、ネットで調べると古本が、今だけ特別価格1万2千円で売っておりました。

皆さんも購入してみてはいかがでしょうか?私は高いから買わないけど。

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