わたくしめ、和平先生の勉強会に参加し、録音講和も頻繁に聞いているのですが、本書を読み新たな発見を致しました。
目覚めと悟りの違い
和平先生は、目覚めと悟りを明確に分けています。目覚めとは、覚醒した意識状態です。
例えば布団の中で夢を見ていたとします。朝、起きた時にそれが夢だと気付くこと。それが目覚めです。
新しい朝が来た!希望の朝~だ♪ ってな感じでしょうか?
和平先生は20歳の時に、すでにその境地には到達していたそうです。時間も空間もなく「すべて無い」という理解です。
しかし、その後もさまざまな過酷な出来事に遭遇し、命の危険にまでさらされ、何が起こっているのか?という疑問が残こりました。
無いなら、なぜこれらの現象が起こるのか?と。
その後、35歳で神の意識と繋がる経験をし、すべての疑問は消滅しました。この疑問が一切ないこと、それが悟りであり、和平先生の探求は終ったといいます。
サタン系の目覚め
目覚めを与える存在は、必ずしも神とは限りません。「魔」、すなわちサタンもまた覚醒を与えます。
一人の人間が悟るということは、宇宙から見れば大きなアンバランスです。光と闇の均衡を保つために、「魔」が妨害してくるわけです。
特に「魔」の力は、悟りに近づくほど強力になります。覚醒を与えて、悟りと思い込ませる。偉大なグルと呼ばれる人物の中には、実は覚醒で止まっている教師も多いと和平先生は言います。
自己の悟りと神の悟り
インド哲学では、宇宙原因をブラフマン、自己原因をアートマンと呼びます。原因は両方とも神であり、梵我一如と言われたりもします。
神は遍在するとしても、人間の意識は、自分の内側に向くか外側に向くか、そのどちらかしかありません。ゆえに内を見ればアートマン、外を見ればブラフマン、となるわけです。
しかし、自分自身が誰なのかを悟っても、世界の原因が未だ理解されていない場合もあります。
原因が分からなければ、現象世界で起こる出来事の意味も分かりません。すなわち神が原因で、全ては神の必然性によって起こっている、という理解に到達する事が「神の悟り」であると和平先生は解きます。
和平先生の記念すべき著書1冊目「恩寵の力」の帯にはこうあります。
『人生には答えがあり、世界には意味がある。あなたに見出されてはじめて、それは真実となる。』
つまり「人生の答え」とは、アートマンを悟ることであり、「世界の意味」を知ることは、ブラフマンを悟ることです。さりげなく、しかし意図的に二つの悟りを表現した言葉です。
宇宙の仕組みと、みこころの理解
和平先生のみこころ体験は、衝撃的かつ圧倒的だったそうです。指一本の動きですら神の決定事項であり、一挙一動が宇宙全体と連動しているという、驚くべき理解です。
巨大な時計の歯車が完璧に連動し合い、針を動かしているように、我々一人ひとりが歯車となって、宇宙を展開しているのです。
と同時に、宇宙の主役はあなたです。あんたが主役(古っ!)
なぜなら、宇宙を認識するのは私であり、認識されなければ、ないと同じだからです。私がいなければ、私にとっての宇宙は消滅します。
映画「マトリックス」の仮想現実の世界では、客観的宇宙は存在しません。コンピューターの中に繋がれているからです。
私たち全員が神の意識の中に繋がれており、それぞれの宇宙に住んでいるとするならば、人生とは、あなただけの舞台です。それをセッティングしているのは神。
昔、「世界の中心で愛を叫ぶ」ってドラマがありましたが、どこで叫ぼうが、そこが中心なわけですね。実はスピリチュアルなタイトルなのです。
ループする宇宙
マーヤは元に戻ろうとする性質があります。目覚めを引き戻そうとしたり、思考が同じところをグルグルと回り続けたり。
私もよく、心を入れ替えて頑張ろう!と思うのですが、すぐ忘れて前の状態に戻ってしまいます。それがマーヤ。
和平先生によれば、マーヤは宇宙全体にまで及んでおり、何度も同じことが繰り返されているそうです。朝が来ては夜が来る。季節も繰り返します。
時間は直線ではなく円です。起点が終点。今している経験は、前の宇宙で起きたことであり、次の宇宙でも起きる。
時間を超越した次元から観た宇宙観です。聖書にも、それを示唆する言葉があります。
かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。(伝道の書)
なぜそうなのかは、神のみぞ知るといったところですが、そこに何か完璧性を感じます。例えば正確無比な職人の技。
寸分の狂いもなく同じ作業を繰り返す様子は、芸術的で見惚れてしまいます。あるいは映画。私などは、新しい映画を観るより、昔観た面白い映画を繰り返し観る方が多い。
神の創造した宇宙は、究極の芸術作品ゆえ、神も何度も繰り返したかったのでしょう。多分。
みこころと教訓
和平先生はこう言います。
「本来、起こるべき出来事はすべからく、私たち自身の成長のために起こっています。人間は苦難を通してしか学びを得られないからです。」
生きとし生けるものは、本能的に快楽を追い求め、苦難は避けようとします。もし人間が快楽からも学ぶとすれば、恐らく全員が悟ってしまうことでしょう。
そうなれば、このマーヤな世界を維持できなくなります。苦難からしか学ばないというのも、神のプログラムなのです。
不運な出来事が起きたとき、フォーカスすべきは「教訓」です。「何を分かるべきか?」という命題に取り組む必要があります。それがみこころ解きです。
教訓と捉えるか、偶然と捉えるかで出来事の意味はまったく変わってきます。そしてもっとも大切なことは、神の愛を信頼することです。
人生の意味とは、ただ愛に尽きるのです。
岩城和平先生
真の自由への挑戦
私たちに自由意思はなく、神の意志で動かされていると思うと、操り人形のように感じる人もいるかもしれません。しかし私はそこに、深い安堵を覚えます。
私のようなちっぽけな人間が、何かをやっていると思うことは、大変な重荷です。全責任が自分の肩に掛かってきます。
そして自分のマヌケっぷりを呪いたくなります。であるならば、重荷を全部、神に明け渡してしまったほうが良い。
親に手を引かれて歩く子供の姿は、見ていて微笑ましいですよね。
仮に親が道に迷ってパニックになっていたとしても、子供は親に全幅の信頼を置いて寛いでいます。
同様に、大いなる存在に委ねて安心することにこそ、真の自由があるのではないでしょうか。
そこで障害になるのが、自分のアイデンティティへの固執です。
神へ全面降伏することが、神が本当に望まれていることだと和平先生は言います。自分のすべてを手放しても残るもの、それが愛です。
人の心を動かす言葉とは
突然ですが、映画の話をしてもいいですか?
ウオーク・ザ・ライン/君に続く道、という映画があります。カントリー歌手、ジョニー・キャッシュの波乱に満ちた生涯を描いた伝記映画です。
主演はもちろん、ホアキン・フェニックス。名優です。
その中に、無名時代のジョニー・キャッシュがオーディションを受ける場面がありました。
わたくし、このシーンが大好きなのです。(映画自体はつまんないけど。)
審査するのはサム・フィリップス。彼はエルヴィス・プレスリーも発掘した伝説のプロデューサー。
サムはジョニー・キャッシュのゴスペルを聴き、説得力がない!といいます。この言葉は核心をついています。
人々の心を動かす音楽というものは、歌う人間の内側から湧き出すものであって、他人からの借り物の曲ではないからです。それは本も全く同じ。
和平先生の言葉には説得力があり、人を惹きつけるものがあります。自分自身の体験からくるものだからです。
神の体験をした人は、神の愛の体現者となります。だから、愛の書なのです。
あとは本書を読み、魂で感じ取ってみて下さい。それでは今日はこの辺で。皆さま、良いみこころライフを。