最近、岩城和平先生の音声講話を聞いています。たまに勉強会にも参加中。
和平先生の勉強会の本質は、話の内容云々よりも、その場のエネルギーを感じることの方が重要なのだそうです。
例えるならば、ラマナ・マハルシでいうところの沈黙の教えみたいな感じでしょうか?
ただ勉強会での内容も、かなり濃厚な話をされているので、一部抜粋して紹介します。文字起こしすることで、私の理解もさらに深まるかもしれません。
2017年1月17日の講話より
和平先生 神様は本質的には、「私を愛しなさい」ということを我々に教えているんだけども、その一環として、我々は人を愛する。
大きな愛と小さな愛があって、小さな愛は愛じゃないって考えもあるけど、そんなことないわけよ。
小さな愛によって愛し方を学ぶわけ。もし小さな愛を否定しちゃったらね、愛し方が分かんないまんまだよ。
愛し方が分からない人間が、神様のことを愛せるはずがない。人を愛せる人が神を愛せる人なの。だからまず、人を愛することなの。どんな愛でもいいの。
今日、ここに来る時にね、キューバのボレロを聴きながらきたの。もう、めちゃくちゃ良いんだよ、これが。男女の愛を歌ってるんだけどさ。
ある種、キューバ人って凄いなって思うとこがあって、人を愛することは神に通じるって、彼らは思ってるんだよね。
昔さ、ミポリンがキューバ紀行するって番組があったの。
音楽の旅だから、キューバの歌姫、ポルトゥオンドにインタビューする機会があってね。
手を握って声を掛けたら、彼女がワーっと泣き出しちゃって。あそこには、もの凄い愛のエネルギーがあったの。
「私は100人以上の男と愛し合ってきた。その愛っていうのが人生なんだよ。愛のない人生は無に等しい」って語るわけ。
別に神様の話をしないんだけどさ、分かってるわけ。彼女のことも何もかも。
どっかの南の島のシャーマンにでも会ってるみたいな場面なの。これは凄いなぁと思って。こういう画はなかなか見れないなと。
彼女の修業は、100人の男と付き合うことだったの。100人の男と付き合うってことは、100人の男と別れがあったわけだから。
その当時、まだ進行形だった。(笑)
悲喜こもごもしたものを彼女の人生の中で昇華していって、愛によってすべてが見えるという境地に到達しているのよ。
それがさ、インドのマスターですって、呼吸法を教えてる場面だったら、超ショボイと思うよ。俺からすれば。
そういうことじゃないんだよな、みたいなさ。
だって神様が与えてくれてるわけじゃん、この現実を。環境を。人との繋がりを。ここの中で愛していくっていうことが神なんだよ。
ただ、そこに神の認識がないと当然のことながら神にならない。
恋人や旦那、嫁や子供を愛してますと。ほとんどの人がそういう人生を送るよね。
でもそれが、神の現れなんだっていう認識の仕方を皆してない。認識しなければ無いと同じなの。
この人生が、神の愛の現れだって見ることができれば、神の愛しかない。その認識をもって日常を経験していくと、神と一心同体になってくるから。
動物だっていいの。その愛する気持ちをそのまま神様に向ければいいの。
例えば、誰かと話をしてたとする。大笑いしてね。その時、ふと俺が通って声掛けたら、そのまま笑顔で振り返るでしょ?
そのまんまいくでしょ。急に真面目な顔になるかい?ならないじゃん。
テレビ見てて大笑いしてたら、「神様、楽しいよ!」って言えばいいわけ。満面の笑みを神様に向けるわけ。
なんか良いことがあったら、全部神様に報告するの。その気持ちで。その状態を与えてくれてるのは神様なんだから。
そしたら、これが神様の状態なんだな、ってことが分かってくるから。よく分かるよ、これから。
状態なの。俺がハッピーなのが神様の状態なの。逆に悲しかったらそれが神様の状態なの。
俺の状態じゃないの。神様の状態なの。全部、神様がやってんの。
とにかく神様が日常にならないといけないから、神様を想うこと。幸せでも悲しくても全部、神様に報告する。傍らに常に神様がいるように話し掛ければいい。
コツはね。右側あたり。そこに向かって話しかける。
俺が最初に経験したとき、そこに立ってたから。ここじゃないよ。ず~っとそこに立ってたんだってことが分かった。いついかなる時も。
それが初日の経験。次の日になったら、そこに立ってた人が、ここになってた。ここにいるじゃん。
それで完璧。ブラフマンとアートマン。同じもの。常に自分と共にそれはあったんだって認識された。それが最初の経験だよね。
(抜粋終わり)
映画「アマデウス」に習う
以前、ある覚者が言っていた話ですが、瞑想は朝夜の1時間だけすれば良いというものではなく、日常が瞑想になれなければいけない、とのことでした。
神様を想起するのも同じかもしれません。朝晩、お祈りを捧げるだけでも良いのですが、日常が神と共にあればもっと良い。
しかし、ここで重要なことは、修行のように行わないこと。集中するのではなく、漫然と覚えておくこと。
和平先生はそれを、神を意図する、と表現しています。活動的な生活の送りながらも、なんとなく覚えている感じでしょうか。恋に似ているかもしれません。
映画「アマデウス」のワンシーンを思い出します。
モーツァルトに嫉妬心を抱くサリエリ。いちいち神様に状況報告するシーンがありました。これが正しい神との関係なのかも?
ただ、感謝もしてないのに、感謝の祈りをする必要もありません。今のその感情をそのまま神に報告すればいい。
嫉妬心もまた、神様の計らいだからです。すべては神の現れってところでしょうかね。
それでは、今日はこの辺で。皆さま、良いみこころライフを。