隠れた名作、心の旅路。(隠れてないですか?)

恥ずかしながら私は、この映画が大好きです。しかし、子供の頃に見たときには、ひとつの疑問が残りました。
なぜ記憶を失うと、過去に愛していたはずの人を、同じように愛せなくなるのかと。ストーリー的に、無理があるのでは?
恐らくこの映画を見て、同じことを思った人も多いはず。しかし、記憶と人格には、密接な関係があるようです。
この視点から考えると、ある程度の説明が可能です。相変わらず、私独自の理屈ですが。
人はそれを、屁理屈と呼びます。
あらすじ
スミスと呼ばれる男は、第一次世界大戦の負傷が原因で、記憶喪失です。自分がどこの誰なのかも分かりません。
精神療養所から抜け出すも、街中で迷子になります。彼を助けたのは、旅芸一座で踊り子をしていたポーラでした。
二人はすぐに恋に落ち、やがて結婚。質素ながらも幸せな生活を送ります。

しかし、その幸せも長くは続きませんでした。スミスは事故に遭い、昔の記憶を取り戻すと同時に、今の記憶を失います。
彼は大富豪の息子、チャールズ・レイニアーでした。
スミスとしての記憶も、ポーラとその生活の記憶も完全に無くし、ひとり故郷へ戻ります。その後、実業家として成功を収めます。
雑誌の記事で、彼の消息を知ったポーラは秘書として、自分の正体を隠し、チャールズに近づきます。

しかし、ポーラと出会っても、チャールズは彼女を思い出しません。それどころか、あれほど愛し合ったはずなのに、以前のような恋へと発展もしません。
ポーラは、彼の記憶が戻ることを心の中で期待しながら、ずっとそばにいます。何も言わず、忍耐強く。
しかし、回復の兆しもなく、やがて希望は絶望へと変わります。
一方でチャールズも、以前の空白の記憶を気にしていました。何か、とても大切なことを、忘れてしまったような気がしていたのです。
人格とは何か?
チャールズがポーラに出会ったとき、彼は完全な記憶喪失で、誰でもない存在でした。
映画の中だけの話ですが、記憶喪失者で自信満々な人を見たことがありません。自己イメージがないからでしょう。
私は大富豪の息子で、ある思想と信念を持ち、性格はこうで、他人からはこう思われており…だから私はこういう人間なのだ!
というものがありません。子供のように真っ白です。
事実、映画では、どこか子供のように振舞っています。だから純粋な心で、ポーラと接することが出来たのです。
しかし、記憶が戻った後の彼は、思考にフィルターが掛かっていました。以前と同じように、彼女を見ることが出来ないのです。
踊り子なんていう、低俗な女性と付き合う私ではない!とかいうタイプだったかは知りませんが。
結局のところ、人格の一部を形成するマインドとは、過去の記憶の寄せ集めにすぎないのかもしれません。
しかし、ハートは別です。そこにはその人間の本性が宿っています。だから心の奥底の、とても深いところでは、ポーラに惹かれていたのでしょう。
ハートの声
チャールズが、姪のキティと婚約したときのこと。礼拝堂で、結婚式に使う讃美歌選びをしていました。そこで牧師がオルガンで弾いた曲が、全き愛。
それは、ポーラと結婚式を挙げたときに使った讃美歌だったのです。ふと、遠くを見つめるチャールズ。その目を見た瞬間、キティは悟ります。
彼には、誰か他に愛する人がいると。
チャールズ本人すら気付いていないことに、気付いたのです。
チャールズは物語の最後に、スミスの記憶を取り戻します。しかし、実際には何も失われてはいませんでした。
ただ気付いただけです。初めからあったハートの愛を。
物語の最後
この映画のラストが、非常に面白い。心に強烈なインパクトを残します。
チャールズが、過去に来た場所をもう一度訪れるなかで、記憶にかかった霧が、徐々に晴れていく演出は、どこかサスペンス風。緊張感があります。
すべてを思い出したチャールズを、ポーラが「スミシィ」と昔の愛称で呼び、抱き合う場面は、何度見ても鳥肌もの。
映画史に残る名シーンではないでしょうか?
エンディング ネタばれ注意
まだ観ていない人には是非、お勧めしたい名作です。あるいは前に観たけれど、記憶に無いという方も、ご鑑賞あれ。
新たな発見があるかもしれませんよ。