大草原の小さな家 「悪魔の声」と比較の声

2020年8月4日

映画 / ドラマ

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大草原の小さな家の中に、悪魔の声というエピソードがあります。この物語では、他者との比較の危うさについて描かれています。



あらすじ
信仰の力で治療を行う伝道師、ダンフォース牧師が、ローラの住む町にやって来ます。

圧倒的なカリスマ性と巧みな話術、奇跡の力で、たちまち町の人達を魅了します。

その一方で、長年、町の人々から慕われてきたオルデン牧師の人気は、下降の一途。日曜日の礼拝にも、わずかな信者しか集まりません。


やがてダンフォース牧師は、町に定住することを決めます。町の人達の投票の結果、オルデン牧師は、この町を去ることとなります。


バーバルの寓話
この物語を観て、ある寓話を思い出しました。

昔、バーバルという道化師が、ムガル帝国のアクバル皇帝に仕えていました。

バーバルは賢いことで有名でした。アクバル皇帝はよく、バーバルの知恵を試しては喜んでいました。

ある日、アクバル皇帝は床に一本の線を引いて言いました。「バーバルよ、この線を短くしてみよ。ただしどこも消してはならぬ。」

この知恵比べは皇帝の勝ちだと、誰もが思いました。どこも消さずに線を短くすることなど、できるはずがありません。

ところがです。皇帝も周りの人々も、皇帝の負けを認めることになりました。バーバルはどうしたのか?

彼はこれよりも長い線を、横に一本引いたのです。


比較の落とし穴
この寓話は、比較による変化を意味します。最初の線はもともと同じ長さです。しかし、その横に長い線を引くと、相対的にもとの線は短くなります。

優秀な人物であっても、より優秀な人と比較すれば、劣って見えます。これがいわゆる、ライバルの出現です。

もし自分を、より優れた人と比較したならば、そこには必ず惨めさがあります。ならば、自分らしさで勝負する以外にありません。

誰にでもその人だけの、ユニークな持ち味があるはずです。それが個人の特権であり、生の豊かさです。


オルデン牧師の自分らしさ
ダンフォース牧師のイカサマが明らかになり、オルデン牧師も町へと帰ってきます。物語の最後、オルデン牧師は教会で、こう言います。

「神学校にいた頃も、その後も、神を雄弁に語ることが夢でした。大聖堂で、大群衆の前で。

でも私には、分不相応でした。神の私に対する欲求は、別なところにありました。

あの時、雄弁な彼に教会を乗っ取られ、傷つきました。嫉妬もした。私が夢見た方法で、信者を魅了する人でしたから。

この教会に戻れることになった時も、こう思っていました。今こそ、雄弁家になるのだと。皆さんが望み、必要とし、愛する牧師になろうと。

そして悟りました。牧師の務めは、人気者になることではない。神を愛することだと。」


聖書の格言
聖書にはこうあります。

たとえ、予言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。(コリントの使徒の手紙-13:2)

信仰の力で、奇跡を行うダンフォース牧師に比べれば、愛を説くオルデン牧師の説教は、地味で退屈かもしれません。

人は、神秘的なパワーに魅かれるものです。それでも、こう言わざるをえません。愛より偉大なものは、何もないと。

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