
主演はミーガン・フォローズ。彼女以外にアンは考えられません。無理!
原作と比べ、年齢がいき過ぎているとか、都会的過ぎるという意見もありますが、まったく問題ありません。
わたし、原作読んでませんので。
音楽も素晴らしい。どこか郷愁を感じさせます。まぎれもなく名曲です。
1985年『赤毛のアン』エンディング
私は普段、ほとんどアニメは観ないのですが、この作品は歴史に残る傑作ではないでしょうか。
思わず唸ってしまうほどの、完成度の高さ。
原題を直訳すると、グリーン・ゲイブルズのアンなのですが、邦題は赤毛のアン。それだけ赤毛のエピソードが印象深いということなのでしょう。
なぜアンは赤毛が嫌なのか
アンは赤毛をとても嫌がっていました。生涯付いてまわる悲しみとまで言っています。
この極端な考え方の原因はなんでしょうか。
アンは幼少期の頃から、不幸の原因をすべて赤毛のせいにしてきたのではないでしょうか。
なぜそう思うのか。私がそうだったからです。昔から私は、細くて貧弱な体型に、強い劣等感を抱いていました。
よく友人から「また痩せた?」とか「なんか悩みあるの?」などと言われたものです。
心配されるのが一番傷つくのです。
鏡を見るのも嫌でした。見たとしても映っているのは、ケイティ・モーリスだと思うことにしてました。
鏡を見るのも嫌でした。見たとしても映っているのは、ケイティ・モーリスだと思うことにしてました。
女性にモテないのも、すべて体型が原因だと本気で思っていました。
もちろんそれは間違っています。
この欠点さえなかったら、という思い込みは、他の原因から目を背ける都合のいい考え方です。
ではアンの場合はどうでしょうか。
アンの生い立ちはとても不幸です。生後すぐに両親が亡くなった後、二度大人に捨てられるという過酷な経験を経て、孤児院へと辿り着きます。
カスバート家に引き取られるまで、深い愛情を誰からも注がれませんでした。
子どもにとって愛情は、食べ物と同じで必要不可欠です。愛情こそが、心を育てる栄養なのです。
注がれなかった愛情の欠如が、アンの自尊心の低さの原因です。アンは、自分の境遇に強い疑問を抱いたはずです。
なぜ私が?と。
それを運命として片付けるには、あまりにも人生は不条理で残酷です。幼いアンには、受け入れ難かったのでしょう。
正当性を得るために、アンは赤毛をその原因としたのかもしれません。
欧米では、赤毛は差別の対象になることもあります。他人との外見の違いは、劣等感として捉えやすくなります。
「赤毛のせいで、きっと私は不幸なんだわ」
アンがそう考えたとしても不思議ではありません。そうしなければ、生きていくのが困難だったのかもしれません。
クラスメイトのギルバートには、赤い髪をからかわれて、長きにわたり冷戦状態となります。
アンの乗ったボートが浸水し、溺れかけたことがあります。そこへギルバートが来てアンを助けます。
この時がギルバートを許す最大のチャンスでした。

しかし、もし許してしまえば、自分の赤毛も受け入れることとなります。
それはすなわち、自分の過去を受け入れるということです。
当時のアンには、まだその準備ができていませんでした。
それでも物語の最後では、ギルバートと和解します。これは特にマシューの存在が大きいように思えます。
無条件に受け入れられ、愛情を注がれることで、少しずつ自分の運命を受け入れていくことができたのです。
しかし、劣等感が必ず悪いというわけでもありません。
それは自分の欠点に気づかせてくれる感情でもあり、その欠点はしばしば、個性や魅力へと変わることもあるからです。
むしろ欠点のある人のほうが、完璧な人よりも愛されやすいという点も不思議なところ。
アンにとって赤毛を嫌うということは、辛い幼少期を乗り越える上で、必要な意味があったのだと、私は思います。
近年『赤毛のアン』の実写版が数多く制作されています。しかし、私が認める赤毛のアンは、1985年カナダ/アメリカ制作のドラマのみ。