6年ぶりの再開!― 岩城和平先生の対面講話レポート

2026年4月7日

新型コロナ以降、オンライン開催が続いていた和平先生の勉強会が、4月5日(先勝)、ついに6年ぶりに対面講話を再開しました。


会場には30名ほどの方々が各地から集まり、再会を喜ぶ活気に溢れていました。


私は今回もZOOMで参加しましたが、画面越しの先生の声に、いつも以上の熱量を感じました。


普段は「しまむら」の服で軽やかに説法される先生が、この日はいつもよりビシッとした、よそ行き姿。


先生も、生徒との久々の再会が嬉しいようで、終始明るい笑顔でした。


偉大な師でありながら、どこか可愛らしい一面もあり、こちらまで温かい気持ちになります。


先生の話は子供のように縦横無尽に広がるので、その中でも特に印象深かった話をいくつかご紹介したいと思います。



神との遭遇

僕はチベット仏教の修行をしてたから、自我を消滅させて空性に入ることで、解脱を目指していたの。神という観念を持たずに修行してたの。


そのあと普通の生活してて、やってきたのが、神だったの。神様の体験したらビックリするんだよ。


「まさかぁ~。いるじゃん!」みたいな。


ホントに生命体なんだよ。意識体。生き生きとした、もの凄いエネルギーをもって存在してる。かつ遍在もしてる。驚くべき経験。


世界の状況を、神のプログラムが動かしてるっていうのも明確になる。


僕が知る限り、これは修行の結果たどり着くものではないなと。ホントはみんな知ってる。生まれてくる前にそこにいたから。神のところに。


成長過程でどんどんマーヤになってるだけなの。マーヤを取り除くことで、本来知ってたことを思い出せる。


新たに何かを得るわけではない。すでに知ってたことを思い出すだけなの。全然簡単じゃん。


思い出すだけなんだ、ということを覚えておいて欲しい。


そこでマーヤが凄いわけ。思い出させないようにする。余計なことをさせるわけ。さまざまな修行をさせたり。


「新たに得るものである」「到達するものである」と認識させることで、遠回りしちゃう。


瞑想っていうのは、かつてそれを経験していた状態を思い出すコンディションを作り上げることなの。


だから瞑想するときは、ただ座って委ねてればいい。


死んだら間違いなく全部思い出すよ。僕は何度か死んでるから。経験者は語る。簡単すぎて、逆に分からなくなってるだけなの。



質問者

マーヤを正しく理解できたら、神様も分かるのでしょうか?


和平先生

全くその通り。


でもマーヤにやられないと神様は出てこないわけよ。神様が我々を新しいレベルに引き上げる時に、必ず大きなマーヤが降ってくるわけ。


それを解いたときに、新たな理解に到達する。これはもうお決まりのパターン。


突然、凄いことが「分かっちゃった」とはならないの。前日まですっごいヤラれてることが多い。


マーヤが深くなればなるほど、反対側の神様も明確になる。暗いところから明るいところに出たら眩しく感じるのと一緒。


神は常にあって、遍在していて、静かぁ~にあるわけ。ブワーって凄いわけじゃない。凄かったら皆に分かっちゃうから。


自分がマーヤにやられてるから、ちょっとのことで、ブワーっと感じるってことなの。要は自分の耐性の問題。その”ちょっと”で神が明確になる。


神様とマーヤは密接に関係してるから、マーヤを解くことは神の理解に繋がる。



深い闇と喜びの関係

「マーヤが深いほど、光が眩しくなる」というお話は、私自身の経験からもよく分かります。


昔、職場に苦手な上司がいました。


その上司が一週間後に転勤すると聞き、思わず笑みがこぼれそうになるのを必死で堪えたことがあります。


顔は残念そうに、しかし内心は大喜び。あのときの歓喜も、マーヤが深かったからこそ強く感じられたのかもしれません。


そんな過去を思い出しながら、先生の話を聞いていました。



質問者

悟りたいと思っているのですが、修行はした方が良いのでしょうか。


和平先生

しなくても大丈夫。あのね、覚醒と悟りの違いは何なのか?

マーヤが解ける状態がある意味、覚醒と言える。目的地に近づいてる状態。悟りは目的地に着いた状態。

目的地に着いた状態は何かっていうと、自分に対する疑問が全て解決する状態。

私が何者なのか。なぜこの世にこの姿で存在するのか、だとか。そういう疑問が完全に解決するのが悟りの状態なの。

だからその前に神様が来る経験をする人もいるわけ。神様の状態ってシェアできたりする。なんか来てます、みたいな。

でも、悟りっていうのは自己完結。「私はこれでいいのだ」って気づくことなの。

今の自分は嫌だから、理想的な自分になりたいとか。悟ってないから悟りたいって思ってるのも同じ。ただ錯覚が起きてる。

とにかく自分に対して一言も否定的な言葉を投げかけない。

何か失敗したら「これは御心なんだ」「全部神がやってるんだ」と。実際、私は何もしてないんだから。

瞬間瞬間、肯定的に私の事を捉える。否定的な感情は肯定的に書き換える、意図的に。

「私はこれでいいんだ」っていう理解がストーンって落ちたら、その瞬間それが悟りになる。

ただ、修行にもメリットがある。修行することによって、真理とか悟りとか神を常に考えてるってことなんだよ。

だから修行しなくてもいい。常にそのことを考えてればいい。

僕が分かる1年くらい前に、家で昼寝してたの。髭生やして杖を持った小さな仙人が胸の上に立ってる夢みたの。

仙人が杖をハートの中心にグっと押し付けて「我神なり、神我なり」と言ってボン!と消えたの。その音で目が覚めたの。

そしたら肉眼で空間に立ち消える煙が見えた。これは現実だと思って、その日から1日中「我神なり、神我なり」と唱え続けてたら、1年後くらいに来たわけ。

我は神なり、とずっと唱えててもいい。神…神…って念じてても良い。繰り返し言い聞かせていく。

「それ」になること。内面的世界がそれでいっぱいになること。その意識で満たしていくこと。それがすごく大事。

(抜粋終わり)


自己探求で最も大切な事

私が最近強く感じるのは、神への情熱の大切さです。


今回、和平先生の勉強会に遠方から参加された方も多かったようです。


その情熱や真理への渇望こそが、目覚めへと導いてくれるのではないでしょうか。なぜなら、渇望を与えているのも神だからです。


かくれんぼが成立するのは、探す人がいるから。もしも探す人がいなければ、隠れる意味もありません。


私たちの「知りたい」という情熱と、神の「在らしめたい」という意志。まさに目覚めへと至る道は、神との二人三脚です。


あとは、思い出すだけ。



本記事を、6年ぶりの対面講話再開の記念として捧げます。