
父は力説していましたが、本人もあまり意味が分かっていない様子で、当時の私は「ポカーン」と聞いてました。
しかし、謎めいた言葉が印象的で、強く記憶に残っていました。それは父も同じだったのでしょう。
この謎は、いつか自分で解き明かしたいと思っていました。まさに命のリレーならぬ叡智のリレー。
長らく疑問だった言葉の意味が腑に落ちたのは、私の師の教えに触れたことがきっかけでした。
言葉の背景にある刺
この言葉が記された背景には、伝道師パウロの凄まじい葛藤がありました。
彼は自分を打ちのめすような激しい苦痛を抱えていました。聖書の中で彼はそれを体に刺さった刺(とげ)と呼んでいます。
それが不治の病だったのか、身体的な障害だったのかは分かっていません。
精力的な活動をしていた彼が、その苦痛を取り除いてほしいと三度も神に激しく祈りました。
しかし、祈りの答えは「治癒」ではありませんでした。代わりに神から与えられたのが、この言葉です。
わたしの恵みはあなたに十分である。
神の恵みと必然性
この言葉は単なる慰めではなく、文字通り真実だと思うのです。必要なものはこの瞬間にすべて与えられている。
似た言葉でキリストもこう説いています。「明日の事を思い煩うな」と。
すべては必然であるという視点に立てば、弱さが存在する理由も必ずあるはずです。
弱さという名の扉

パウロのコペルニクス的回転
パウロは、この絶望的なまでの無力さの先に、コペルニクス的回転とも言える逆転の真理を見出しました。
「むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。……なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである。」
自我を弱め、神の御心に委ねる。そのためには、神の完璧性を信じることです。
もし私たちに自由意志があるならば、行為しているのも私。しかし、神だけが唯一の行為者であるとしたなら、私たちは責任から完全に自由です。
重荷を下ろし安心すること。神の全き愛を信頼すること。御心のままに、と。
それが信仰(シュラッダー)の真の意味であり、パウロの言う「強さ」です。
パウロは自由意志否定派か?
パウロは自由意志を否定していたのでしょうか。私には分かりません。聖者をディスる訳ではないですが、そこまでの理解に到達していたかは謎です。
もし違うなら、聖書の言葉に、私が新たな息吹を与えてしまったかも。人類初!
しかし要点はそこではありません。大切なのはパウロが神から啓示として受け取った、わたしの恵みはあなたに十分である、という御言葉。
私にとっては、それで十分です。
座右の銘としての祈り
私は日々「あなたの恵みは十分です」と感謝の祈りを捧げています。むろん聖書の影響です。
この言葉は「開けゴマ!」。扉を開く魔法の呪文です。
呪文も、毎日唱えていないとすぐに自我に引き戻されてしまいます。それこそが、世界を眠らせるマーヤ、忘却力の凄さです。
最後にもう一度。
わたしの恵みはあなたに十分である。
この言葉が、必要なときに思い出せる形で残っていれば、それで十分です。