「私はいない」の落とし穴 ― 岩城和平先生に学ぶ「在る」の視点

2026年4月16日

スピリチュアルの世界でよく語られる「私はいない」。


しかしこの言葉は一歩間違えると、人生からの逃避になる危険性をはらんでいるように思います。


私もある時期、鏡に映る自分に向かって「あなたはいない。世界は幻想。何も起こっていないんだぜ!」と唱えていました。


ついでに「お前はすでに死んでいる」みたいな。


しかも毎日1時間、約半年間ほどバカ真面目に念じていました。


確かに一時は、安堵のようなものを感じました。しかし日々の厳しい現実に戻ると、そうも言ってられません。


「なんか違うぞ?」と。


疑問に思い、オリジナリティ溢れる私の実験は幕を下ろしました。


このような経験は、探求者の多くが一度は通る道ではないでしょうか。


和平先生の勉強会でも、同じ悩みを相談されている方がおりました。その時の答えが面白いので紹介します。



質問者

どうしても「私はいない」という教えが観念で止まってしまいます。


和平先生

私はいないという観念から始めると失敗しちゃうの。

例えばね。瞑想中にオナラをしたくなったとする。そうしたら「プッ」ってしちゃうじゃん(笑)

結局、無い無いって念じてても「在る」ってことの方が認識として強いわけ。圧倒的に。

じゃあ、どうしたらいいかっていうと「在る」ってころから始めた方が良い。ラマナ・マハルシの「私は在る」だとか。

アドヴァイタ系なんかは、私はないけど神が在る。この「在る」ってところにフォーカスするわけ。

確かに無いって境地は存在するんだよ。でもそれは、余りにも今の自分とかけ離れているの。

でも「在る」って状態は迷いなく受け入れられるじゃん。

仏教徒が考える空の思想とかは、実は無いことを前提とはしてないの。それを認識する私が在るから無いって言えるわけ。

俺も無の境地は経験したことがある。確かにあるんだよ。ただそこから出てきたら、現実の世界に戻ってくるわけじゃん。

現実が始まったときに「これは無だから水は飲まない」と思っても喉乾いたら飲んじゃうじゃん。

そうすると無いって経験が僕の中でウソになっちゃう。

だから仏教徒とか色んな人が「私はいないんだよ」とかいってるけど、それはただ言ってるだけなの(笑)

じゃあ、飲まず食わずなのか?

そんなことないじゃん。ってことはその人は空を生きてないわけ。

偉いお坊さんが空について説法しても、車で移動してる時点で「空じゃないじゃん」みたいな(笑)

無いってことを観念としてたとしても、肉体が勝っちゃってるわけ。

だったら最初から「在る」ってところから始めた方が良い。

神も、世界を顕現させる前は「無い」っていう状態だったわけ。でも全く何も無ければ、神は生じて来ない。

在るけど無いって状態。そこから突如、神が出現する。出現するには、まず相対化が起こる。最初に父と母に分かれた。

分かれたことで、この相対が全ての創造を成していくわけ。

在るけど無いって状態は確かにある。無の状態も確かにある。でも神は、無に先行して在った。

だから宇宙っていうのは「在る」ってことが全ての源になっているの。

今の自分にとって当たり前のところから始めないといけない。だから「私は在る」でもいい。

多くの人は信じてないけど、神も在る。みこころもマーヤもある。良いことも悪いこともある。

全部在るんだってところに立脚してフォーカスしてると、全然見えてる世界が変わってくると思うから。

(抜粋終わり)


ワンネス体験の賞味期限

「私はいない」という状態は、仮に体験できたとしても、やはり一時的なものだと思うのです。

私の知り合いに瞑想中、ワンネス体験をした女性がいました。「私はいない。すべてはひとつ」という境地です。

その圧倒的な愛の体験ゆえか、顔が別人のように穏やかな表情に変わっていました。完全に変容したかのように見えました。

ところが!

その2~3か月後にお会いすると、元の顔に戻っているではないですか。

すっかり以前の状態に戻ってしまったということが、一目で分かりました。


どれほど深い体験であっても、日常生活に戻ると自我に引き戻されてしまうのだと思いました。


恐るべし地球の重力。驚くべきマーヤの忘却力。



ノンデュアリティ(非二元)の罠

神秘体験や、非日常的な体験は、真理の一瞥を与えてくれます。それ自体は価値があると思います。

しかし問題となるのは、その体験が今の現実とかけ離れている場合です。どう整合性を図るのかが重要だと思うのです。

昔YouTubeで、ノンデュアリティの教師と、生徒の会話を見たことがあります。

教師は言います。「あなたはいないのです。時間も空間もない。だから原因も結果も存在しないのです」

それに対して生徒は「どうしたら、そこに辿り着けるのですか?」と尋ねます。

教師は答えます。
「探求する、あなたはいないのです」

生徒は尋ねます。
「では探求しないほうがいいのですか?」

教師は答えます。
「探求しないという、あなたはいないのです」

生徒は尋ねます。
「苦しみには、どうしたらいいのでしょうか?」

教師は答えます。
「苦しんでいる、あなたは……」

無限ループ地獄


会話が嚙み合いません。私が生徒だったらこう尋ねます。

「もし、あなたがいないのなら、私があなたの家にずっと居座っても、文句を言いませんか?」と。

この種のズレは「ある境地の視点」をそのまま日常の次元に適用しようとするからだと思うのです。

例えるならば、水中にいる人に対して「呼吸したら苦しくないですよ」とアドバイスするようなものです。


それでも変わらずあるもの

しかし、どの次元であっても一つだけ共通するものがあります。それが「在る」です。唯一否定できないもの。

今この瞬間も、何かを感じ、何かを経験している。そのすべての中に「私は在る」。

和平先生の話によれば、神を毎晩、この現象世界で体験するそうです。目を見開いたままで。

私が知る限り、そんなことを言っている覚者は他に誰もいません。何よりも本人が一番驚いたほどですので。

とするならば、神の体験は、無我の境地に限ったものではありません。要は、こちらのコンディション次第。

自我も消す必要もない。無理だし。

そう考えると、今いるこの場所、神のみこころが働き、私たちを導いてくれるこの次元を生きることが、とても大切なことのように感じます。

世界を無いとするのではなく、すべてを神の現れとして見る。

瞑想中の特別な体験だけを真理とするのは、嫌な仕事のない休日だけが「我が人生」と言うようなものです。

この現実の中で悩み、感じ、学び、進んでいくこと。この与えられた人生を、そのまま引き受けて生きていくこと。

そこにこそ本当の価値があるのではないでしょうか。

和平先生が言う「人生の中に答えがある」とはそういう意味なのかもしれません。