しかし私は逆です。決まっているからこそ、行為するのです。
なぜそうなるのか。
今の私の状況を見れば、少しは伝わるかもしれません。
無職になってからの話
私は今、無職です。
以前は障害者施設で働いていましたが、あらぬ疑いをかけられ、それが理由で辞職しました。
私も黙ってはいません。
話し合いの末、和解金を受け取りました。しかし、それもどこか気分が悪く、その日のうちに全額寄付しました。
その後、面接は15連敗。やっと採用された職場も、長くは続きませんでした。人生もコーヒーも甘めが好きなのに、ブラックを飲む毎日。
辞めたこと自体に後悔はありません。
ただ、無職が続くと、今までコツコツ貯めてきた貯金がどんどん減っていく。これが地味に厳しい。
「寄付するんじゃなかったかな?」と思ってみたり。
ボディブローのように、精神が削られていくのです。
田野和也さんの御心体験
無職生活に焦りを感じてきた時に思い出したのが、数年前に観た動画。
それが田野和也さんの「ホームレスからの逆転」という実話です。
スピリチュアルを一切信じなかった田野和也さんが、数々の奇跡の連続により神を信じるに至った体験談です。
私の信仰の強固な裏付けとして、読者諸君に「証拠A」として提出します。
しかし、この動画ですら私を勇気付けてはくれませんでした。
田野和也さんのように成功へと導かれる人もいれば、不運な方向へと進む人もいる。
それが神の御心、カルマ、運命、あるいはなんであれ。さて、私はどっちなのでしょうか。
もしもその御心が、地獄行き急行だったなら――
そんな不安がよぎるのです。
全部、御心だから委ねてしまえばいい、と頭では分かっています。
けれど私は、自分の望む結果であってほしいのです。
私は田野和也さんのように、ポルシェに乗りたいわけではありません。軽自動車で満足です。ただ幸せになりたいだけなのです。
しかし、それすら私には選べない。
宇宙誕生の一瞬で、すべてが決定していると思うからです。種子が花として開くごとく、世界が展開していく。
この変えられない流れの中で、それでもなお別な方向へ舵を切れたなら。そこに今回の問いがあります。
聖書 山上の垂訓
聖書に私が好きな一節があります。
明日の事を思い煩うな。
あなたがたの天の父は、これらのものがみな、
あなたがたに必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
(マタイによる福音書 6:33-34 / 口語訳より要約)
このキリストの言葉は、私にとって福音です。
神を一番に求めさえそうすれば、必要なものは勝手にあとから付いてくるという、夢のような話だからです。
ムージ 恩寵の歳月
ジャマイカ出身の精神的指導者であるムージは、覚者パパジに出会う前の数年間を、無一文の浮浪者のように過ごしたそうです。

真理を求めることだけに、全存在を捧げていたのです。
すると、インドへ渡る旅費が舞い込み、覚者パパジのもとへと導かれたといいます。
この話はどこか、田野和也さんの当時の状況と似ているように感じるのです。
経済的に追い詰められた状況の中で、それでも不思議な形で支えられながら進んでいく。それを私は恩寵と呼んでいます。
委ねとは何か?
ヤケクソ状態と「委ね」は、紙一重だと思います。「どうにでもなれ」という点で。
委ねは、恩寵が訪れる余白になり得ます。しかし、そこに至るまでに、人は行為へと駆り立てられることもある。
スーフィーの寓話に、河に流されても「神の御心のままに」といって溺れる修行者の話があります。
人は、あがくのではないでしょうか。
私にとって、あがきが行為です。その先に委ねがある。その時初めて「御心のままに」と祈れるのです。
それでも私が祈る理由
私は未来を変えられないと思っていますが、それでも祈ります。
「幼子が母を求めて泣くように、あなたを求めさせてください」と。
