すべてが決まっている世界で、それでも私が祈る理由

2026年4月22日

私は、すべての出来事は「神の御心」であると信じています。偶然も自由意志も信じていません。

もしも運命が全部決まっているなら、人は努力をしなくなるのでは?と考えるのも無理はありません。


しかし私は逆です。決まっているからこそ、行為するのです。


なぜそうなるのか。

今の私の状況を見れば、少しは伝わるかもしれません。



無職になってからの話

私は今、無職です。


以前は障害者施設で働いていましたが、あらぬ疑いをかけられ、それが理由で辞職しました。


私も黙ってはいません。


話し合いの末、和解金を受け取りました。しかし、それもどこか気分が悪く、その日のうちに全額寄付しました。


その後、面接は15連敗。やっと採用された職場も、長くは続きませんでした。人生もコーヒーも甘めが好きなのに、ブラックを飲む毎日。


辞めたこと自体に後悔はありません。


ただ、無職が続くと、今までコツコツ貯めてきた貯金がどんどん減っていく。これが地味に厳しい。


「寄付するんじゃなかったかな?」と思ってみたり。


ボディブローのように、精神が削られていくのです。



田野和也さんの御心体験

無職生活に焦りを感じてきた時に思い出したのが、数年前に観た動画。


それが田野和也さんの「ホームレスからの逆転」という実話です。

スピリチュアルを一切信じなかった田野和也さんが、数々の奇跡の連続により神を信じるに至った体験談です。


私の信仰の強固な裏付けとして、読者諸君に「証拠A」として提出します。


しかし、この動画ですら私を勇気付けてはくれませんでした。


田野和也さんのように成功へと導かれる人もいれば、不運な方向へと進む人もいる。


それが神の御心、カルマ、運命、あるいはなんであれ。さて、私はどっちなのでしょうか。


もしもその御心が、地獄行き急行だったなら――

そんな不安がよぎるのです。


全部、御心だから委ねてしまえばいい、と頭では分かっています。


けれど私は、自分の望む結果であってほしいのです。


私は田野和也さんのように、ポルシェに乗りたいわけではありません。軽自動車で満足です。ただ幸せになりたいだけなのです。


しかし、それすら私には選べない。


宇宙誕生の一瞬で、すべてが決定していると思うからです。種子が花として開くごとく、世界が展開していく。


この変えられない流れの中で、それでもなお別な方向へ舵を切れたなら。そこに今回の問いがあります。



聖書 山上の垂訓

聖書に私が好きな一節があります。


明日の事を思い煩うな。

あなたがたの天の父は、これらのものがみな、

あなたがたに必要なことをご存じである。


何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。


(マタイによる福音書 6:33-34 / 口語訳より要約)



このキリストの言葉は、私にとって福音です。


神を一番に求めさえそうすれば、必要なものは勝手にあとから付いてくるという、夢のような話だからです。



ムージ 恩寵の歳月

ジャマイカ出身の精神的指導者であるムージは、覚者パパジに出会う前の数年間を、無一文の浮浪者のように過ごしたそうです。

真理を求めることだけに、全存在を捧げていたのです。


すると、インドへ渡る旅費が舞い込み、覚者パパジのもとへと導かれたといいます。


この話はどこか、田野和也さんの当時の状況と似ているように感じるのです。

経済的に追い詰められた状況の中で、それでも不思議な形で支えられながら進んでいく。それを私は恩寵と呼んでいます。

その過程において、人はしばしば困難に追い込まれ、ヤケクソのような状態を経験します。


委ねとは何か?

ヤケクソ状態と「委ね」は、紙一重だと思います。「どうにでもなれ」という点で。


委ねは、恩寵が訪れる余白になり得ます。しかし、そこに至るまでに、人は行為へと駆り立てられることもある。


スーフィーの寓話に、河に流されても「神の御心のままに」といって溺れる修行者の話があります。


人は、あがくのではないでしょうか。


私にとって、あがきが行為です。その先に委ねがある。その時初めて「御心のままに」と祈れるのです。



それでも私が祈る理由

私は未来を変えられないと思っていますが、それでも祈ります。


私にとって祈りとは、神とのコミュニケーションであり、親密な関係を築くための大切な時間です。

毎日、気が付けば2時間以上祈っています。

日々熱心に祈ることで、神への憧れや渇望が少しずつ強まっていきます。そうさせているのも、神なのかもしれません。

なぜキリストは、神を最初に求よと説いたのでしょうか。それ自体が恩寵だからです。

神に近づきたいと望む者に、どうして神が無関心でいられるでしょうか。

私は神を、人生の第一優先に置いて生きたいと心から願っています。

一日のすべてを、神への想いで満たしていたいのです。

「求める」という行為は、結果を得るためではなく、決定した未来の結果が「形」として現れたとも受け取れます。

すなわち、原因は未来で、結果は今です。

しかし究極的には、時間は存在しません。未来と今は、コインの表と裏のように、同じ一つの現象の両面なのです。

だから私は、祈るのです。
求める未来を今ここで、形とするために。


「幼子が母を求めて泣くように、あなたを求めさせてください」と。