最近、中川諒氏著書「いくつになっても恥をかける人になる」という本を読みました。
といってもブックオフで立ち読みなのですが。読んだ理由はもちろん恥をかいたから。恥の心理を知りたかったのです。
その本によると、恥をかくことは必ずしも悪いことではないそうです。「恥をかかない無難な人生を歩むな」みたいなことが書かれてありました。
確かに!
ほとんどの人は、行動するかしないか判断するときに、無意識に恥を基準に決めているそうです。
恥を恐れていたら、前進も成長もあり得ません。実際に著書は、「迷ったときは恥ずかしい方を選ぶ」と決めたことで、人生が好転したそうです。
素晴らしいですよね。スティーブ・ジョブズの名言、「愚かであれ!」の意味とは、まさにこのことです。
多くの人が、恥を恐れてチャンスを逃していると著者はいいます。確かにそう思いますが、私はそれとは違う恥が存在すると考えます。つまり何の生産性もない恥です。
例えば服に値札が付いていたり、チャック全開だったり。高級レストランでお漏らししたり(見たことないけど)。こういう恥が1番問題です。
そんな恥を極めると「誰も私を知らない街で、ひっそりと暮らしたい」という境地にまで到達します。
皆さんは、そんな恥をかいたことがありますか?私はあります。恐らく大半の人はそこまでの経験はないでしょう。
誠実な人生を歩んでいる証拠です。私からすれば賞賛に値します。しかし、そこまで極端でなくとも、恥は多くの人にとって共通の問題です。
私が恥をかいてから、ずっとこの問題について考察してきました。そこから見えてきた、恥との向き合い方について解説したいと思います。
恥とは何か?
そもそも恥とは何でしょうか?簡単にいうと周囲からの評価を気にする、ということです。女性人類学者ルース・ベメディクト氏の著書「菊と刀」の中に、こんな言葉があります。
欧米は罪の文化。日本は恥の文化。
欧米人はキリスト教の思想が強いがゆえに、神から罰を受けることを恐れ、罪を犯さないように行動します。
それに対して日本人は、周囲の評価が行動の基準になります。世間の道徳、暗黙のルールに従って生きることです。
世間一般の常識の中で生きる人は、良い人間と評価され、そこから外れて生きることは恥ずかしい、となります。
この日本文化は、とてつもない強制力を発揮すると私は考えます。例えば、新型コロナのマスク義務化が解除された、去年の3月13日の話。
私はその日からマスクを外しました。マスクの効果をまったく信じていなかったからです。むしろ有害性すら感じていました。
しかし周囲を見ると、誰一人として外していません。マスク着用率100%!その後も誰も外す様子はありません。
私の周りにも、マスクの無意味さに気づいている人はいました。しかし、それ以上に周囲の目を恐れたのです。
これこそが、世間の常識から外れて生きることの難しさであり、恥をかくことへの恐怖です。
当時、世界中で日本だけが、マスクを着用していたことが何よりの証拠です。そんな日本人も、海外に行けばマスクを外すという分かりやすさ。
この国で生きていく限り、恥をかくことへの過剰な恐怖から自由になることは困難です。同調圧力が強い文化の中で生きているからです。
自分の恥を他人は何とも思っていない、は本当か?
先に紹介した中川氏の本の中で、「他人はあなたの恥を何とも思っていない」という話が出てきます。確かにそれは一理あります。
あなたの恥を周囲の人が面白おかしく語ったとして、せいぜい15分程度。長くても30分。あとは忘れて別な話題になるでしょう。
自分の恥について1日中、頭を悩まし続けられるのは、世界中であなた1人です。つまり誰もあなたのことに、そこまで関心がないのです。
自意識過剰!
そう考えると、自分を1番苦しめているのは自分自身、もっというと自分の脳に騙されている、ということになります。
しかし例外もあります。仮に1人15分、あなたの恥ずかしい話について語ったとして、10万人が話題にしたらどうなるか?
合計で3年近い会話時間です。これは自分の脳で考える量を超えています。
だからこそ、悪い話は広まってほしくないと思うのです。芸能人が不倫などで叩かれノイローゼになる理由も、シンプルに人数の差です。
あるいはド田舎で広まる恥ずかしい話など。村人全員が知っている場合。
悪口が束で襲ってくるのは恐ろしいことです。ゆえに「他人はあなたの恥を何とも思っていない」としても、他人に苦しめられるのです。
尊敬される人ではなく、応援される人を目指す
では恥に対して、どう向き合えばいいのでしょうか?
中川氏の本の中で1番参考になったことは、尊敬される人ではなく、応援される人を目指す、ということです。
尊敬されようという意思が強いほど、恥を避けようとします。理想の自分と現実の自分との差に苦しみます。
しかし誰でも他人の評価は気になります。それを無くすことはほぼ不可能です。誰もが他者から尊敬されたいと無意識に思っているはずです。
そこで評価の基準を、尊敬される人から、応援される人に変える、というのが著者の提案です。
応援されると人とは、どういう人でしょうか?本の説明では、自分の弱さや欠点を隠さない人だと言います。ありのままの自分でいられる人。
人間は、欠点のある人を好む傾向があります。親近感が湧いたり、共感できるところが多いからかもしれません。
あるいは弱みを隠さず話すことで、相手の信頼度も上がるかもしれません。自分に心を開いていると感じるかもしれません。
自分のダメな部分も全部受け入れて、さらけ出せる人なら、きっと多くの人に愛され、応援されることでしょう。
しかし実際のところ、さらけ出すのは難しいというのが私の感想です。
どうしてもカッコつけ心理が働くからです。そこでポイントになるのが、恥を笑い話に変えることです。
笑い話にすることで、ただの失敗が経験談として昇華されます。恥ずかしい思いをしたけれども、今は試練を乗り越え笑っていられる、となるからです。
他人の過去の面白エピソードを聞くと、大体が本人の失敗談です。けっして武勇伝ではないのです。
自分のことを笑える人は、魅力的に映ります。自分の欠点を認めない頑固さがなく、自分を客観的に見れる余裕があるのです。
ところで「いつか笑い話になるさ」というセリフを聞きますが、最初から笑い話にしてはダメなのでしょうか?
実際に私も、恥を笑い話して、何人かに話してみました。恥を乗る超える前です。恥真っ最中。
それでも意外と他人は、自分の失敗談を喜んで聞くものです。そしてほとんどの人は共感してくれたり、励ましてくれるものです。
人の優しさに触れると、恥という心の重荷は、確実に軽減されます。そもそも笑い話にしている時点で、ある程度、恥を受け入れられている証拠です。
もしも、自分の恥を非難する人がいるならば、そんな人からは嫌らわれたら良いのです。根っこの部分で最初から合わない人なのです。好かれる努力をするだけ無駄です。
むしろ積極的に嫌われましょう。開き直りも、一種の受け入れ状態です。
人生とは全部、神の壮大な茶番みたいなものだと私は感じます。神はジョークが好きなのに、なぜ人間だけがこうも深刻なのか?
私の場合は、恥を他人に話すことで心を軽くしました。話を聞いてくれそうな人がいたら、実は最大のチャンスなのです。
ひとつの方法として、恥を笑い話として誰かに聞いてもらうことを試してみてはいかがでしょうか?
恐らくこれが、最も簡単に恥を忘れる方法だと思います。とにかく大事なことは、ユーモアを忘れないことですかね。
ユーモアのある人は、有能に見られるという研究報告があります。相手に与える良い印象が、結果として自分自身の印象にも影響を与えます。
恥もユーモアを交えながら話せば、何かが良い方法へと変わるかもしれませんね。それでは今日はこの辺で。