岩城和平先生の講話 お題「怒りの正体」

2023年11月8日

岩城和平先生

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岩城和平先生の説く修行とは、日常生活の中で目覚めていこうというものです。すなわち、この人生が修行です。



勉強会でも、座禅や瞑想法の話にはあまり触れません。先生自身、チベットのアシュラムで、日に多い時には15時間くらい瞑想していたことを考えると、意外ではあります。


楽な道と思われそうですが、先生の勉強会に参加し始めると、明らかに日常生活が荒れます。いい感じに荒れます。


私もここ数年、平穏な日々を送っていたのですが、突然、様々な困難に遭遇し始めました。


和平先生曰く、荒れる原因はマザーの影響が大きいようです。試練が与えられるからこそ、そこから学び成長する。マーヤ解きやみこころ解きも促される訳です。


毎日が退屈で何も起きなければ、あまり神に向かおうとする意欲も高まりません。今は恩寵が訪れており、いわゆる巻きがかかった状態だそうです。


つい先日も職場の同僚と盛大に喧嘩をしました。もはやカオス状態。完全に修羅場。戦争勃発です!


こう書くと、キレやすい性格かと誤解されそうですが、普段は穏やかな性格です。これほど激しい喧嘩したのは人生初(祝)


あとから振り返り、私にも悪い点はあったな、なんて反省したわけですが、でも絶対に相手の方が悪い!


なんて感じだったのですが、ちょうど和平先生の録音講話を聴いていたら、怒りについて重要なことを話していたので紹介したいと思います。



2022年10月30日の講和より

和平先生 カオスが1番の修行になるんだよね。何時間も瞑想するよりも、ドロドロの人間関係からの方が、学ぶことはいっぱいある。


我々は1日何時間も瞑想しないけれども、生きてる中で様々なカオスを体験させられ、そこから学ぶ。


これが神のみこころによって起こっているんだって見方をキープしてると、結末がピタッ!とみこころにハマるような見え方がして来るんだよ。


生徒  さっき娘と喧嘩しちゃいまして。怒りが止まらまくなっちゃったんですよ。


和平先生  あのね、人と接していて腹が立つ場合、怒っているのは自分だから、自分が怒っていると思うし、相手が怒らせてると思うじゃない?


でもね、この怒りってね。自分のモノではなくって、どこか別の所から来る。入られるの。怒りに。


これを別モノとして見れると、怒りが発生したときに、「あれ、これどっかから来たな」と思えるようになる。そうなるとその怒りに囚われなくなってくるの。


自分が何かに対して怒っていると思うと、相手に怒りをぶつけたくなるわけ。それやると勃発しちゃうから


相手に怒りをぶつけないためには、怒りを正当化しないことなんだよね。怒っている人ってのは、怒りを正当化する傾向があるわけ。


正当化するんじゃなくて、この怒りはどこか別なところから来て、私の中に入り込んだひとつのエネルギーなんだって理解をする。このエネルギーを何とかしなければならない。


エネルギーの正体を見破って自分の外に出す方法を考えることによって、怒りに対する意識の向け方が変わってくるんだよね。


喜びもそうなんだけど、僕は自分の中で喜びが湧いてくるってのは、神様から来てるものだって理解してるわけ。


だから喜びが湧いてきたら自分が嬉しいってなるんじゃなくて、「神様ありがとうございます」って感謝をする。


辛い感情が沸き上がってきたら、「こいつ、どっから来たんだ?変なエネルギーが来たぞ!」って解釈すると客観的になって、それらのエネルギーを取り除くことが出来るようになってくるわけ。


僕はもう自分ってのは無いっていう、空っぽな感覚がある。


だから自分に生じてくるどんな思考も感情も、全部外から来るものだって解釈してるわけ。


喜びだったり嬉しいだったり、明るくなるような感覚があるときには、全部神様から来てると思うから、「神様ありがとうございます」っていう風になるわけだよね。


信心深い人だと夜ベッドに入ると、「ああ、神様ありがとう!」ってなるんだよ。だって布団に入ると気持ち良いでしょ。


お祈りしようと思ってなくても、布団に入った瞬間に神様への気持ちが湧いてくるんだよね。


喜びがあるときは、神と共に分かち合うっていう習慣を身につけていく。


逆に苦しくなるような感覚には、「これはマーヤだな」とか「サタンだな」とか認識して、「こいつ早く出てってくんないかな」っていう風に、第三者的な見方をする。


家の中に自分と娘の二人しかいないと、この二人のやり取りの中でエネルギーが出てきたりするから、どうしても相手のせいにしちゃったりする。


それやっちゃうと人間関係グチャグチャになっちゃうから。


そういう時には、一人になって「これはどこから来てるんだろう?何なんだろう?」って怒りに意識を向けるのが大事なやり方になってくるわけ。


(抜粋終わり)



怒りの正体とみこころの理解

怒りが自分のものではない、という教えは革新的ですが、疑問が残ります。怒りが自分のものでなければ、それは誰のもので、どこから来るのでしょうか。


その答えはこの講和の中では語られていませんが、先生の教えによく登場する、サタンではないかと推測します。


感情を混乱させたりマーヤを発生させる存在、それがサタンです。キリスト教では堕天使などとも呼ばれ、覚めようとする探究者を妨害してきます。


ですが、一般的な悪魔のイメージとは違い、至る所に普通に存在します。悪い想念の運び屋で、マインドに欲望を植え付けたりもします。


サタンは隠れることを生業とし、隙あらば、ここぞとばかりに弱点を突いてきます。ここ突かれると痛いな、みたいな。


もしかすると、気づかぬうちに入ってきて、何年も潜伏している可能性もあります。弱ったときに出現する、まるで帯状疱疹みたいなヤツです。(違うか?)


ただマーヤと同じで暴かれると効力を失います。今回の犯人は恐らくサタンだったのでしょう。今後の反省材料にしたいと思います。


とはいえ、和平先生の教えでは、反省することだけを目的にはしていません。喧嘩が勃発したのも必然であり、この経験を通して、神は私に何を分からせたいか?というところに焦点を合わせるからです。


反省すること以上に大切なメッセージが、そこには隠されているかもしれません。


松岡修造さんは言いました。「反省はしろ!後悔はするな」と。しかし私は言いたい。「反省し過ぎるな。御心を知れ!」


反省し過ぎると、起こってしまった出来事を肯定的に捉えにくくなるからです。私のように自己肯定感が低い人は特に。


大前提として、神が在ること。神のみこころがあり、全ては起こるべくして起こったこと。起こる事には必ず意味があること。


悟っていない私からすると、そう信じるしかないって話ですが、この視点から見なければ浅い学びで終わります。


今回はサタンにしてやられましたが、やられて初めて、自分のウイークポイントならぬマーヤポイントが明確になるわけです。そうやって少しずつ、学んでいくのでしょうね。


「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と、聖書にあります。


どういう意味かは知りませんが、苦難とは姿を変えて訪れた恩寵かもしれないと考えると、希望が生まれますよね。

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