聖書の中に、放蕩息子の例え話があります。この寓話は一般的には、悔い改めと神の赦しを説いていると思われています。

しかし、この物語には、より深淵なメッセージが隠されているのではないでしょうか。たぶん。
悟りの境地にあるキリストならではの、例え話であると感じます。ここでは、私なりの解釈を説明します。
放蕩息子の例え話
ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そこで父は要求通りに与えた。
すると息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果してしまった。
そこへ大飢饉が起きて、豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚の餌さえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。
彼は思った。父のところには食物のあり余っている雇人が大勢いるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。帰って父に謝罪しよう。
彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにして下さい。
しかし父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。
それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし父親は兄をたしなめて言った。
子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。
解釈
古代インド哲学のなかに、ブラフマンである神(梵)と、アートマンである魂(我)が同一であるとする、梵我一如の思想があります。
私たちの魂が神とひとつになることで、輪廻転生から解放されると考えられています。放蕩息子の例え話をこの視点から考えると、また違った解釈が可能です。
解釈
古代インド哲学のなかに、ブラフマンである神(梵)と、アートマンである魂(我)が同一であるとする、梵我一如の思想があります。
私たちの魂が神とひとつになることで、輪廻転生から解放されると考えられています。放蕩息子の例え話をこの視点から考えると、また違った解釈が可能です。
この世界に輪廻転生する魂とは、父なる神から分離した者のことです。これが放蕩息子です。
聖書に登場する兄とは、神と完全に一体化したまま、一度も生まれてこない魂です。
兄は、神の内で完全な安らぎに包まれているかもしれませんが、それを知ることはありません。自意識がないからです。それは深い眠りに似ています。
神は全てであるために、自分自身を体験できません。体験するには自らと分離した存在を必要とします。それが魂です。そして舞台はこの人生。
魂とは神の一部であり、神の個人的表現です。それこそ人間がこの世に生まれて来た究極の目的なのかもしれません。
この幻想の世界(マーヤー)という、見かけ上の分離した場所から、魂が自分自身を発見すること。
その時、魂は最初から、神とひとつであったことを悟ります。それが梵我一如と呼ばれるもの。
例えるならば、眠りの中で、遠い異郷の地を訪れた夢をみていたのに、目覚めたらずっと我が家にいた、そんな感じですかね。
例えるならば、眠りの中で、遠い異郷の地を訪れた夢をみていたのに、目覚めたらずっと我が家にいた、そんな感じですかね。
だから悟りのことを、目覚めともいうのではないでしょうか。しかし疑問が生じます。では実際には何が分離していたのでしょうか。
それは、魂の延長線上にある自我、パーソナリティ、あるいはマインドなどとも言えるかも知れません。
合一を体験するために分離が必要であり、分離がなければ合一もありません。体験がなければ価値もありません。
放蕩息子の例え話は、魂が故郷へと帰るまでの壮大な人生を、暗に表現しているのかもしれませんね。