放蕩息子のたとえ話の真の意味|魂の帰郷として読むルカ15章

2020年5月14日

聖書『ルカによる福音書』15章11–32節には、放蕩息子のたとえ話が記されています。



この例え話は一般的に、悔い改めた息子を迎える父を通して、神の愛と赦しを示すとされています。


しかし本記事では、この放蕩息子のたとえ話を「梵我一如」の視点から読み直し、魂の帰郷という観点から考察します。


放蕩息子のたとえ話

ある人に二人の息子がいた。弟は父に財産の分け前を請求した。そこで父は要求通りに与えた。


すると息子は遠い国に旅立ち、放蕩の末に財産を使い果した。そこへ大飢饉が起きて、飢えに苦しんだ。


彼は思った。父のところには食物があり余っているのに、わたしはここで飢えて死にそうだ。帰って父に謝罪しよう。


彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ、走り寄って抱きしめ接吻した。


息子は言った。私はもう息子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにして下さい。

しかし父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。

それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩して財産を使い果たした弟を軽蔑する。しかし父親は兄をたしなめて言った。


子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

だが、お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。


放蕩息子のたとえ話が示す本当の意味

古代インド哲学のなかに、ブラフマンである神(梵)と、アートマンである魂(我)が同一であるとする、梵我一如の思想があります。


魂が神とひとつになることで、苦しみの輪廻から解放されると考えられています。放蕩息子のたとえ話をこの視点から考えると、また違った解釈が可能です。


この世界に生まれてくる魂とは、父なる神から分離した者のことです。それが放蕩息子です。


兄とは、神と完全に一体化したまま、一度も分離せずに安らぐ魂です。兄は深い平和の中にいますが、自覚することはありません。それは深い眠りに似ています。

兄は不満を漏らしますが、これは弟との対極を成す隠喩であり、弟の堕落と帰郷を際立たせるためです。堕落を知らない兄は、再会の歓喜を知りません。


この歓喜や様々な感情を、神自身が体験したいと願ったのかもしれません。


もし神が全体であるなら、自らを体験するために「他者」が必要です。それが魂です。魂とは神の一部であり、神の個人的表現です。そして舞台は、この人生。


幻想の世界(マーヤー)を通して自分自身を発見することで、魂は最初から神とひとつであったことを悟ります。それが梵我一如です。


例えるなら、遠くの土地をさまよう夢を見ていたのに、目覚めたらずっと我が家にいた、と気づくようなものです。


だから悟りのことを、目覚めともいうのではないでしょうか。では実際には何が分離していたのでしょうか。

それは、魂そのものではなく、私たちが日常で「自分だ」と思っている思考や感情、習慣、役割──つまり自我や心の働きなのかもしれません。


合一を体験するために分離が必要であり、分離がなければ合一もありません。分離があるからこそ、再会は喜びとして認識されます。


放蕩息子の例え話は、魂が故郷へと帰るまでの壮大な人生を、暗に語っているのではないでしょうか。


放蕩息子に見る神の愛

父親は、まだ遠くにいる息子を見つけ走り寄りました。これは神が、私たちを常に見守り、帰郷するのを切に願っていることを象徴しています。

私たちが孤独を感じる時、それは単に『神の愛』を忘れているだけなのかもしれません。

迷子になったように見えても、実は一度も神のもとを離れてはいなかったのですから。